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2011年12月30日 (金)

一年を振り返って、その1

今年はみなさんにとってどんな一年だったのでしょうか?

私の今年を、今日、明日と総括してゆきたいと思います。

白石徹新春の集いなどを開催しながらも、会社の方は、結構厳しい状況でした。今だから話せますが、1月2月は資金事情では最悪でした。

ただ、国の制度融資や友人の紹介による新規銀行の融資に助けてもらいました。

そんな、慌ただしいときに足の先を火傷したのです。ただそんなに気にもせずに仕事をしていたのですが、

だんだん、痛み止めや熱さましが、最初は24時間だったのが、6時間ほどしか効かなくなって、

とうとう、例の東日本大震災の日です。

松江市で全国のバリアフリーツアーセンターの総会をやってるときでした。しかも、次の日は全国フォーラムも控えていたのですが、

震災の映像を見たぐらいから、身体に今までに無い違和感と、悪寒を感じました。

一緒に行っていたメンバーには断って、一人で急遽帰る事にしたのです。

帰りの松江からの特急や、岡山駅、そして予讃線も、車内では震えが止まらず最悪でした。

何とか新居浜へ帰り、よく月曜日には、愛媛大学病院へ、知り合いの教授を尋ねて行ったのです。

快く引き受けてくれた恩地先生から、開口一番出た言葉は「白石さん、死ぬとこですよ!!」

即日、入院となりました。先生のおかげで、幸いにも足は切断もすることなく回復しました。

ただ、その入院中の53日間は、

自分にとってさまざまな事を考えさせられた期間であったことは事実です。

それと同時に、入院中ではありましたが、東北支援の準備を始めました。

これは、市議会議員の大石市議、永易市議の二人がずいぶん活発に動いてくれたのです。

おかげで、救援物資も衣類をはじめ倉庫一杯になるほど集まりましたし、支援金も集まりました。

しかも、

みんなが、第一弾の支援先も女川で了解してくれました。

女川では、私の同級生、佐藤充氏が災害にあって亡くなったところです。彼は多くの中国人を助けその後、被災にあったのでした。

4月8日、第一弾が出発したのです。

災害救援ボランティアネットワークのメンバーだけではなく、料飲組合から女性が3人、クックチャムさんからも社員と、保冷車、あと食材もずいぶん提供していただきました。

大石、永易両市議は、統一地方選挙の直前にもかかわらず、気持ちよく陣頭指揮をとってくれました。

病院に居た私は、早くみんなと行きたいと思うばかりでありました。

第二弾のボランティアは5月27日から31日までの3日間でした、これも退院はしていたものの、私は参加できず、石巻で若干みんなと会う事ができたぐらいでした。

そんななかで、吉報は、息子が結婚するという知らせです。いわゆる震災婚のような感じですね、

お互いになんかあったときに一緒に居たいので、ということでした。

また、五月に退院してからは、歩くのは心もとないので、もっぱら自転車で、出かけるようになりました。

そんなこともあって、7月には、「自転車まちづくりフォーラム」を開催しました。

あまり準備もできないままで、開催してしまったことが、若干悔やまれますが、

今、新居浜で、新たな大きなうねりとして活動を起こさなければならないと信じています。

入院と震災対応、そして、自転車街づくりと、ばたばただった、前半でした。

以後、明日に

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