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2011年5月 2日 (月)

思い出ばなし、

連休は、ブログネタもないので、思い出話などをすこし、、、。

16年前、阪神大震災で被災した神戸にボランティアで行った時の話しです。

阪神大震災~くさったバナナ折り~

震災がおき、そのよく日、東京の日本青年会議所会館へ行きました、山本会頭も被災し、ご子息が亡くなったらしい情報が入っていました。

全国からの支援物資を、何処へ集めてそれからどのルートで被災地へ搬入するか、

私は東京から各地の青年会議所に指示を出し、例えば神戸以西の所からの支援物資は、姫路の商工会議所駐車場にいったん仮置きしてから搬入とか・・・。

あと、被災地に乗り込んだボランティアの人達の為のボランティア保険の契約(当時は、まだ、ボランティア保険という名称さえなかったのですが、初めてつくったのです)を済ませてから、四国の青年会議所のメンバーとも打ち合わせをして、金曜日、瀬戸大橋の公園に集結。それから現地へ進行し、土曜の朝より「たきだし」と「うどん」を提供することとしました。

およそ150人ほどのメンバーで数十台の車やトラックで大橋を渡って行きました。先頭は当然私が運転する4トントラック(水をつんだタンク車)です。

途中、明石の辺りで、警察の静止をうけ、私が交渉して了解を得て、いざ現地へ、

高速道路はさほどいたんでもなく、何とか新神戸トンネルまでやってきて、トンネルの出口まで来た時、

あまり景色も変わってないしと思いながらハンドルを右にきった瞬間、

私のひざは、ガクガク震えていました。

眼前の光景はまさに焼け焦げた街と、道路にビルが横たわっている。今までに見たこともない光景でありました。

その後、部隊は3班に分かれて、それぞれうどんを皆さんに提供しました。1500食ほどあったうどんもあっというまになくなり、

その後、4トン車で市内を走っていた時です。

おばあさんが乳母車を引きながら歩いていました。「おばあちゃん、なんか手伝おか?」と声をかけると、そのおばあちゃんは「水が無いのよ!!」と、言うので「水なら、おばあちゃんこの車に、まだたくさんあるよ!!」と私が言うと、おばあちゃんは、「ついてきて!!」と、さけんで、小走りで前へさっさと行きました。

そこは、「えげやま小学校」と言う小学校のグランドでした。

途中、電信柱が倒れて、車が行けない所で車を止めると、グランドの方から「オー!!」と、言う声が聞こえ、男性が数人、その電信柱をあっという間にのけてくれました。

それから何時間かそこに避難している人々に水を供給し、水を出している間は、私達は物資を校舎の中へ運び込んだりしていました。

私がしばらく神戸に残って活動をすることを、校長先生に伝えると、快よく図書室の一角を提供してくれました。

また、給水が終わって、車で区役所へ向かおうとすると、避難所の、おおぜいの人達が、

口々に「ありがとう!!」「助かったよ!!」と言ってくれました。皆さんが与えてくれた拍手に勇気づけられました。

区役所へ向かったのは、食糧や物資の運搬を手伝おうと思ったからです。区役所に着いてみると、なんと、お弁当が山のように積み上げられているではありませんか?!

「なぜ、避難場へ運ばないんですか?」と、区役所職員に尋ねると、

「この避難所は何人、ここは何人というふうに、必要個数を確認してからでないと、運べません」と言うのです。

「え?」「なぜ?」「持っていって1個でも足りないとそこで、ぼろかすおこられるから!」

「えー!!!、それやったら、ボランティアの僕達で運びますョ」

結局、配給される弁当は私達がボランティアで運ぶこととなりました。最初、私達が持って行って足らなくてもそう怒られることはありません。

そんな活動をしているある日、ある避難所のテントから、「ちょっと、ちょっと」と、呼ばれて行ってみると、そこには大量のくさったバナナがありました。

「毎食、バナナくれるんやけど、そのバナナが鼻について食べれんのや。ワシらでかえしたら、次からくれんようなったらいかんので、ボランティアのあんたらで、このバナナ、捨ててきてくれんか?!」

その夜、私達は穴を掘って腐ったバナナを折って捨てました。

区役所と住民の方々、お互いの信頼がしっかりできていれば、こんな話など、あり得ないことだと思いました。

行政と住民の信頼感!!必要ですよネ!

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